昭和48年7月1日  特別奉修委員


(途中から)
 ある方がお届けをしておられますのに、合楽教会大発展の事を、もう繰り返し繰り返しお願いをしておりますと、実感がなくてもだんだん力がこもってきて実感が湧いてくる。そうすっと、今度は、今度はこちらの方が有りがた涙がこぼれるようになってくるというお届けをされましたがね、やはり稽古というかね、または唱え言葉といったような事でも、ただ唱え言葉で済んでしまってはならんけれども、やはりそういう願いを持っとるけれども実感が湧かない。湧かないから祈らないのじゃなくて、そういう願いを持っておるならば、やはり実感はなくても願わなければいけない。
 あの、その話を聞きながらそう思いましたですね。確かにそうだなと。なら、願いは誰でも持っとるですね、合楽教会が大発展のおかげを頂かれるようにと持っとりますけれども、実感として湧いてこないから願わんのです。だから、実感が湧かんから願わんというのじゃなくて、繰り返し、そういう願いを持っておるなら願わなければいけない。それは、合楽教会大発展だけの事ではない。もう身近な自分の周囲の事でもそうです。なら、隣近所の事でもそうである。本当に隣近所、みんなが幸せになられるようにという願いは持っておる。けれども、実感としてはまだついてきてこない。祈りの言葉とまではならない、と言わずに、それをやはり、繰り返し繰り返し祈っておる内に、実感が伴うてくる。だけではない、その事が、神様の喜びである証拠に、こちらが有難うなってくるという事です。
 合楽教会大発展、それを祈る事は、結局、銘々の大発展に繋がることだ、とまあ、そろばん(づく?)じゃなくてもですね、とにかくあの、合楽にご縁を頂いておる人は、合楽の教会を、発展を願わない者はあるまいけれども、願う人は本当にわずかです。ですからやっぱりそこんところの願いが、神様の基幹にかなうというか、お喜びいただける様な事を自分も願っておるけれども実感がないといったような事柄のほうがですね、やはり、願わなければいけないという事ですね。
 どうぞ。